二期会公演「魔弾の射手」

今年の夏は、豪雨のち酷暑。西日本豪雨で犠牲になられた方々には言葉もありませんが、全国的な熱波は身をもって体験しています。一歩でも外に出るのを躊躇うほどの暑さですが、勇を揮って上野に出掛けてきました。首題の二期会公演「魔弾の射手」。
何故か7月21日は関東も関西もオペラ公演が重なっており、魔弾の射手も二期会と兵庫がバッティングしています。東京圏では杉並でカルメン、同じ上野の東京文化会館では小ホールでヘンデルのアリオダンテが掛かっており、関西でもびわ湖でトスカが上演されていたそうで、狭い日本列島で何と5本ものオペラが犇めくという狂乱状態ではありました。

そんな中から私は二期会の魔弾を選びましたが、別に他意はありません。実は兵庫の魔弾は個人的には苦手な指揮者がプロデュースしていましたし、態々遠征するほどの資金も無し。アリオダンテよりは馴染みのあるウェーバーを、人騒がせなコンヴィチュニー演出で見られる聴ける、というミーハー的な興味があったことは正直に告白しておきましょう。それに「魔弾の射手」、前に見たのはかなり以前の事でしたし、いつでも聴けるというレパートリーでもありません。コンヴィチュニー演出はハンブルク公演をDVDで見ましたが、それから20年でどう変わったのか、あるいは変わらないのか。今回の二期会公演は、そのハンブルク州立劇場との共同制作であり、新制作でもあります。土曜日のキャストは以下のもの。

ウェーバー/歌劇「魔弾の射手」
 オットカル侯爵/大沼徹
 クーノー/米谷毅彦
 アガーテ/嘉目真木子
 エンヒェン/冨平安希子
 カスバル/清水宏樹
 マックス/片寄純也
 隠者/金子宏
 キリアン/石崎秀和
 ザミエル/大和悠河
 花嫁の介添/田貝沙織、鳥井香衣、渡邊仁美、長谷川光栄
 アガーテの少女時代/小澤可依
 マックスの母/川俣光紗
 ザミエル(ヴィオラ・ソロ)/ナオミ・ザイラー
 合唱/二期会合唱団
 管弦楽/読売日本交響楽団
 指揮/アレホ・ぺレス
 演出/ペーター・コンヴィチュニー

オペラ観戦記の場合、余り細部まで書いてしまうと「ネタばれ」という非難を浴びそうなので、この記事も敢えて全日程が終了した時点でアップすることにしました。一日遅れの感想はそのためで、悪しからず。

二期会のコンヴィチュニー演出と言えば、「皇帝ティートの慈悲」「エフゲニ・オネーギン」「サロメ」「マクベス」と定期的に登場しています。ティートは初登場の演目で、ほとんど記憶にありません。マクベスは生憎見る機会に恵まれませんでしたが、オネーギンとサロメは当ブログでも詳しく紹介しました。ズバリ言ってオネーギンは感心し、サロメは理解不能の演出でしたっけ。私にとっては当たり外れの大きい演出家ですが、今回の魔弾は「当たり」の演目と言って良いでしょう。
細部には良く判らない箇所も多いのですが、全体的なコンセプトは、この作品の理解に大いに役立つものと思慮します。感想はどうしても演出に傾きますが、思い付いたことから順次書いていくことにしました。

コンヴィチュニーの視点は恐らく、「魔弾の射手」がベルリンでの初演でセンセーショナルな大成功を収めたのは、ヨーロッパ諸国における(ドイツの)政治的な地位の低さゆえの劣等感を癒してくれた、からだ、という事実を再現し、これを現代の我々にも体験させたい、ということにあるのではないでしょうか。読み替えとか深読みという小手先に捉われることなく、ウェーバーが当時の聴衆に与えた衝撃を再現したい、という演出家の意図を汲み取るべきだ、という意味です。
彼は、1848年のドイツ革命をもってロマン主義は終わる、それによって人々は目覚める、ということもプログラムのインタビューで明らかにしていますね。

オペラが始まって間もなく、世襲森林保護管クーノーが射撃大会の由来を語ります。この伝統行事(世間常識と解しても良いでしょう)の結末に基づいて領主のオットカル侯爵がマックスとアガーテに判決を下す。しかし客席で観戦していた隠者が立ち上がり、伝統的な判決に異を唱え、こともあろうに1年間の施行猶予とその後に結婚許可を与える、として覆してしまう。今後は射撃大会は中止するように、とまで宣言。
即ち舞台上で進行するのは過去に縛られた無批判の良識であるのに対し、客席は革新、新しい価値観で問題を見つめ直すドラマ、とも言えるでしょう。最後に登場人物全員が歌う感謝の合唱は隠者本人に対してでなく、隠者が代表している一般市民=客席に対してなのです。これが、敢えて隠者を客席に座らせていることの根拠と読みましたがどうでしょうか。

この視点に気付けば、農民と猟師は社会的に定められた敵対関係にあるとか、階級社会の制度で言えばカスバルは上位に当たるハンターで、その地位のお陰で花婿及び後継者の候補になる。しかしアガーテは地位では2番目のマックスを選ぶ。カスバルはよそ者で、彼が花婿・後継者となることは皆が望まない。クーノーのジレンマは、近代的な決定権を持つ人の悩み。ここに問題の解決は見いだせない。などとプログラムに紹介された論点も何となく腑に落ちるではありませんか。

他にもありました。それは男声合唱団が象徴するもの。有名な「農夫の合唱」を歌う男声合唱団は魔弾の射手以後の180年間、男性友愛結社の代表となったのだそうで、今回の演出でも男声合唱はオケ・ピットで歌い、舞台には横になった女性たちしか登場しません。その女性たちの間を、狼に扮したザミエルが舐めるように漁って行く。これこそ男性の優越的妄想の本質、即ち男の愚かさを象徴的に捉えていたのではないでしょうか。

今回のコンヴィチュニー演出は、基本的には20年前と余り変わっていないように感じました。例えば序曲の扱い。
普通は客席の照明が落とされて指揮者登場、拍手と段取りが進みますが、今回は指揮者は予め指揮台に座っていたようで、拍手もなく序曲が始まります。舞台下手に設置されているエレヴェーターは4階を指し示していますが、賛美歌にもアレンジされているホルン四重奏が終わるとエレヴェーターの針が下降し、最も下の階「狼」まで下降する。ここでモルト・ヴィヴァーチェの主部となる狼谷の音楽に入り、第278小節で長いフェルマータ休止。
ここでエレヴェーターの針が一気に上昇し、最上階の7階、即ち7発の魔弾の最後にまで到達し、フィナーレのハ長調和音が朗々と鳴り響く。序曲だけの演奏に比べて最後のフェルマータ休止が長いのは、オペラの本編をダイジェストで描いていることを明確に伝えていることにも繋がるのでしょう。

古典派の時代、「Overture」は序曲という意味と同時に、現在の「Symphony」の意味もありました。「魔弾の射手」序曲は単にオペラの前奏曲ではなく、交響詩的な性格を持つ一品とも解釈できるでしょう。ロッシーニのウイリアム・テルもこの線上にあると見ることが出来ます。

そもそもオペラの下敷きになったヨハン・アウグスト・アペルの小説「魔弾の射手」の結末は悲劇でした。しかしヨハン・フリードリッヒ・キントとウェーバーはこれをハッピー・エンドに変えてしまいます。これは単なる怪奇譚ではなく、ドイツ社会の変化・成熟を予言する、あるいは期待するという作者側の意図があったのかもしれません。この作品がなければ、ワーグナーは生まれなかったのは事実でしょう。
それにしても最後は余りにも啓蒙的、道徳的、時に政治的に過ぎると感ずるのは私だけでしょうか。

この演出は視覚的にも極めて面白く、特に狼谷の場面はスペクタクル。火の車輪が回り、ゾンビが蠢くホラー映画さながらでした。それとは反対に意図が今一つ良く判らない場面もあり、例えば第2幕の最後、即ち狼谷の最後にザミエルがバスタオル一枚で登場し、舞台両脇から強烈な照明が客席に向けられて、舞台上が良く見えなくなる仕掛け。これは何を意味していたのでしょうか。
更にトイレに長蛇の列が出来た休憩時間には、絶えず時を刻むカチカチ音が鳴っていました。恐らくこれも何かの暗示、時は過去から未来へと絶え間なく流れる、という警告なのかもしれません。魔弾の射手は音楽的にも政治的にも歴史を変えた作品、と言いたいのでしょうか?

歌唱はオリジナル通りのドイツ語でしたが、台詞は日本語。日本人以外の聴き手を意識したのでしょうか、日本語字幕の他に舞台上方に英語字幕も用意されていたのは初めての体験。キントの台詞はとかく弱いとされていますが、この演出では大幅に書き直された台本(岩下久美子)が準備されていたようでした。お陰で極めて重要な意味を持つ射撃大会の由来が理解できたと思います。
歌手たちに付いては、男性軍のドイツ語が今一だったのに対し、女性軍は花嫁の介添え4人も含めて台詞も歌唱も見事。特にアガーテの嘉目とエンヒェンの冨平は大注目です。嘉目は確か私は初体験ですが、冨平はアリアドネでも聴いた記憶があります。

事前のチラシにも大書されていたように、元宝塚トップスターの大和悠河(やまと・ゆうが)が全日ザミエル役でオペラ・デビューするというのも今上演の話題で、宝塚応援団とみられる一団が熱烈に反応していたのも目を惹きました。私には少し煩わしく感じられたのも事実ですが・・・。
コンヴィチュニー演出ではザミエルに重要な意味を持たせているのも特徴で、通常の演出ではこの台詞のみの配役は二度ほど登場するだけですが、二期会情報では14回も、しかも毎回衣裳を換えて登場した由。コンヴィチュニーはザミエルを「人間を搾取する資本主義時代と共に現れた、神が排除される不透明な状況を擬人化した存在」と説明していますが、私の貧弱な頭脳では完全には理解できませんでした。神とは対極の存在、ということでしょうか。

この演出ではザミエルの他にもアガーテの少女時代や、マックスの母という黙役が出てきますが、その演出上の意図も私には理解の難しい存在です。
最後の最後、隠者から配られる金色のカードが意味するところも同じ。「工業化ゆえ人間味のある解決法はなく、不本意な妥協しかない」ということなのか?

今回が初来日というアルゼンチン生まれのぺレス指揮する読響は、相変わらず素晴らしくドイツ的な響きでウェーバーの森を響かせてくれました(ピットなので確認できませんが、チェロの首席は誰だったのでしょうか、素晴らしいソロが聴けましたね)。楽員の何人かは冒頭の場面で舞台デビュー(?)。ザミエルの影武者としてヴィオラを弾いたナオミ・ザイラー共々、舞台上のナマ演奏も好舞台に華を添えています。

面白いけれど難しい、嫌いな人には徹底的に拒否されるのがコンヴィチュニー演出、と言えそうですが、文化会館に響いていたウェーバーは、真に真摯で正統的な演奏でした。

 

 

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