日本フィル・第704回東京定期演奏会

10月12日、それは何という一日だったのでしょう。この日は東京・赤坂のサントリーホールで日本フィルの東京定期が行われたのですが、某所からアレクサンドル・ラザレフが定期に襲来、いや来場するという噂が流れてきました。
確かラザレフは11月の定期を振る筈ですが、目下上野では東京国際音楽コンクール(指揮)が行われている真っ最中で、ラザレフは審査委員の一人に選ばれ来日中。オケが呼んだのか本人が“行くぞ!”と言ったのかは知りませんが、インキネンとラザレフが同じ場に居る、ということ自体が事件じゃありませんか。私も会場に着くなり、ラザレフは何処だ、と彼方此方探してしまいましたわ。いたいた猛将、通訳の小賀明子さんと同道していましたね。

それだけじゃないんです。この日はサントリーホールの開場記念日。このホールがオープンしたのは1986年の10月12日ですが、当初は海外からの来日オーケストラや特別演奏会の類が中心でした。当時在京オケの定期演奏会は上野の東京文化会館が中心でしたが、確かサントリーホールが渡邉暁雄氏に依頼し、日本フィルがサントリーホールに定期の会場を移したのが1989年9月スタートのシーズンから。従ってサントリーホールで定期演奏会を開催する草分けオーケストラが、日本フィルなんですねェ~。
当時私は横浜在住でしたが、家の事情などで東京の実家に戻り、コンサート通いも可能になった事から、何処かのオケの定期会員になるべく在京オケの演奏会を全て聴いて回ったものでした。その結果選んだのが日本フィル。6月に上野で聴いたグローヴス指揮するディーリアスの人生のミサに感動したのが第一要因でしたが、日本フィルは仕事の関係で中断するまで、1965年からずっと会員だったという繋がりもありました。演奏曲目が多彩なこと、加えてその年の9月からサントリーホールに会場を移すということも知っていたので、迷うことなく日本フィル定期会員の道を選択したのでした。

サントリーでの最初の定期は1989年9月7日、小林研一郎指揮(記憶では病にあった渡邉氏の代演)のマーラー第3でしたが、その時のことも良く覚えています。そして10月定期で渡邊暁雄指揮のメサイアを聴いたのが、アケさんを聴いた最後から2番目。翌年1月のブルックナー第7が、私が接した渡邉暁雄氏の最後の姿となってしまいました。
そのサントリーホール誕生日に日本フィルを率いるインキネンとラザレフが邂逅し、しかも曲目はブルックナー。これを因縁と言わず何と表現しましょうか。前置きが長過ぎます。10月定期のプログラムは、ズバリ以下の2本立て。

シューベルト/交響曲第5番変ロ長調
     ~休憩~
ブルックナー/交響曲第9番ニ短調
 指揮/ピエタリ・インキネン
 コンサートマスター/扇谷泰朋
 ソロ・チェロ/菊地知也

シューベルトとブルックナー、時代も違う、調性も異なる。編成の大きさも雲泥の差。この二人に接点が無いのかと言えば、そんなことはありませんでした。プログラム(解説は樋口隆一氏)では触れられていませんでしたが、二人を繋ぐ人物にジーモン・ゼヒター Simon Sechter (1788-1867) という作曲家・教師がいます。シューベルトは晩年になってさえも更なる勉強が必要と考え、1828年11月4日に友人のヨーゼフ・ランツと連れ立って、対位法とフーガのレッスンを受けるためにゼヒターを訪問します。2回目のレッスンの日取りも決まっていましたが、シューベルトは既に死の床にあり、11月4日が最後の外出記録となってしまいました。若き天才はゼヒター訪問の2週間後、神に召されます。
そのゼヒターの晩年、音楽家としての自立を目指して弟子入りを請うたのが、シューベルトが亡くなったのと同じ31歳のブルックナー。31歳のシューベルトと31歳のブルックナーを共に知るゼヒターは、何と10月11日が誕生日で、今定期の前日なのですね。しかもしかも、10月11日はブルックナーの命日でもあるのだからから驚くじゃありませんか。

サントリーホールと日本フィル、インキネントラザレフ、シューベルトとブルックナーとゼヒター、十重二重に因縁の重なった日本フィル10月定期の初日、何となく心騒ぐ中でのサントリー行となったことは、これでお分かりいただけたでしょうか。
このコンサート、悪かろう訳がありません。前半のシューベルトは、フルートは1本でクラリネットは無し。トランペットもティンパニも無く、ホルンは木管楽器の一員として扱われる楽器編成です。シューベルトの手本はモーツァルトのト短調交響曲であったことは間違いなく、変ロ長調でありながらも何処と無く悲し気な響きを内包していることが聴き取れます。
シューベルトは25歳の時に「僕の夢」と題する寓話を書いていますが、その中に「僕は愛を歌いたかったのに、僕が歌うとそれは苦しみになった。こんどは苦しみを歌いたいと思うと、それは愛になった」という一節があります。これがピタリと当て嵌まるのが第5交響曲、特にその第2楽章じゃないでしょうか。インキネン/日本フィルが初めて披露したシューベルトは、爽やかなテンポの中にも苦しみの痕跡を宿し、聴く人に大きな愛情を注いでくれました。

後半はブルックナー。インキネンはこれまで第5・7・8番を取り上げてきましたが、今回は集大成とも言うべき第9番。昨今この作品は、未完に終わった第4楽章を復元したスコアで演奏するのが流行のようですが、インキネンは従来通り全3楽章で完結した作品として演奏してくれました。私はこのやり方に大賛成です。
最終楽章となった緩徐楽章は、ブルックナーの常としてA-B-A-B-Aという構成を持ちます。しかし第9の場合、最初のA-B-Aまでは第7や第8と同じですが、二度目のBでは第9でしか起きないような展開が待っています。Bが始まって暫く、オーボエが下降音型をソロで奏し、ホルンのソロが堪える。ここからが問題の個所で、例えばブルックナーの夢、神の楽器トロンボーンによる呼び出し、そして神の降臨とでも表現したくなるようなドラマが続き、夢からの目覚め。
構成が曖昧なまま天国と地獄の闘いを連想させるパッセージが続き、遂には13度で構築される強烈な不協和音。これこそがブルックナーの死でしょう。音楽は真のコーダに入り、第8交響曲、そして第7交響曲が回想されてブルックナーは昇天していく。

余りにも感情的な解釈と言われそうですが、これら一連の進行は、私にはブルックナーがこの箇所で死を、そして第9交響曲をこれで完結させることを意図して敢えて書き了えたように思えてならないのです。もちろんその後に続く第4楽章のスケッチが残されており、それを様々な人が完成版として発表していることも承知していますが、私はブルックナーが自身の死を悟り、第3楽章最後のBに至った所でこの第9交響曲を終わらせたいと思うに至ったのではないか、と考えます。ブルックナー自身が第9交響曲を未完で演奏する際には、最後にテ・デウムで締め括る様に言い遺したとされるのが、その証左ではないでしょうか。
例えばアーノンクールやラトルがコールス版で録音もしていますが、私は反対。もし第4楽章を演奏するのであれば、第3楽章を第7や第8のようなA-B-A-B-Aに書き直し、前3楽章の引用も登場する第4楽章に入るべきではないか。もし第4楽章を演奏するのなら、それだけ単独で取り上げれば良い。もちろん素人の勝手な解釈ですから、反対される方が殆どでしょうが・・・。

インキネンの指揮は、一言で言えば気宇壮大。ゆったりと歩を進め、余計なことを付け加えずにブルックナーが書いた音符を忠実に音にして行く。対向配置から生まれる重厚な低音が響の礎となり、遅いテンポにも拘わらず、緊張が弛緩する箇所は微塵もない堂々たる伽藍。かつてドイツ音楽とは正反対の方向性を掲げて創設された日本フィルから、これほど重厚なブルックナーが聴こえてくるとは、少なくとも私は考えてもいませんでした。
来年4月はヨーロッパ楽旅、首席指揮者の任期を延長したインキネンは、やはりドイツ音楽をこのオーケストラのレパートリーの中核に据えていくようです。マーラー、ワーグナー、ブルックナー、ブラームス、メンデルスゾーンとシューベルトとくれば、来る2020年の目玉はベートーヴェンで間違いないでしょうね。

日本フィルのツイッターには、遂に実現したインキネンとラザレフのツーショットが掲載されています。この日は収録用のマイクが林立していましたから、いずれ何かの形で聴くことが出来るかもしれません。二人が並んだ写真を眺めながら、静かにCD化を待つことにしましょうか。

 

 

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