日本フィル・第606回東京定期演奏会
「交響曲」にテーマを絞っている日本フィルの12月定期。巨匠という名に相応しい旧東ドイツ出身のヘルビッヒの登場です。以前は「へルビヒ」という表記だったと思いますが、今回のプログラムてはヘルビッヒ。このレポートもそれに準じます。
(私が聴いたのは金曜日、第1日目のコンサートです)
これまで平日のコンサートは会社帰りに聴くというスタイルでしたが、今日は体力を温存して自宅から。これからはこのパターンにスイッチするので、今日はその第1回でもあります。
その所為でしょうか、この日は乾いたスポンジに水が染み込むように、音楽がグイグイと身体全体に浸透していきます。内容は、
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第3番
~休憩~
シューベルト/交響曲第8番「ザ・グレイト」
指揮/ギュンター・ヘルビッヒ
ピアノ/ゲルハルト・オピッツ
コンサートマスター/木野雅之
フォアシュピーラー/江口有香
流石に12月、アークヒルズのカラヤン広場もクリスマスの飾り付けが眩しいほどです。それでも何処となく華やぎに欠けるのは、迫り来る恐慌の足音故でしょうか。
そのモヤモヤした気持ちを吹き飛ばしてくれたのは、オピッツの素晴らしいピアニズムでした。
のっけから顰蹙を買うような言い回しを使いますが、日本フィルのような貧乏オケに極めてギャラが高い(はずの)オピッツが登場するのはレア・ケースと言えるかも知れません。しかしそれだけのことは、あります。
ベートーヴェン第3のバックを振るのがヘルビッヒであったことも幸せなタイミングであったと言わざるを得ません。
オピッツは、往年の巨匠ウィルヘルム・ケンプの音楽的伝統を受け継いだ人で、正真正銘のドイツ音楽を聴かせてくれます。特にベートーヴェンは、こうでなくてはベートーヴェンではない、と言いたくなるほど説得力に富んだもの。
具体的に指摘するのは難しいのですが、テンポは正しいとしか表現できないし、リズムは安定して崩れません。それでいて音楽が硬直していないのは、この人の資質というべきでしょうか。
肩からは完全に力が抜け、手首を効果的に使ってダイナミズムを創り出すのです。その音楽は、どんな細部も作品全体の構成からはみ出すことがない。
音の粒立ちの素晴らしいこと!! 例えば第2楽章最後のカデンツァ風パッセージを聴いて御覧なさい。高音から低音まで、音の質が完璧に揃っていて、最高グレードの真珠を転がすよう。
ヘルビッヒが導く日本フィルも、透明でありながら、真に音楽に満ち満ちたベートーヴェンを描きます。弦楽器のサイズも16型という大型を保ちながら、決してピアノに被るようなことはありません。どんな強奏部でも、ピアノの細やかなニュアンスが客席でも聴き取れるのです。これって、実際には極めて難しいこと。
私もほぼ半世紀に亘って様々なピアノ協奏曲を聴いてきましたが、これほど力強く、かつ優しく、音楽に溢れる演奏を聴いた経験はそうあるものじゃありません。
オピッツさん、素晴らしいベートーヴェンを有難う。そう言うしかありません。
後半のシューベルト。これもまた見事な演奏です。ヘルビッヒの音楽は、基本にピアニッシモが存在します。どんなフォルテがあっても、決して叫んだり喚いたりしません。密やかに心の襞を紡いでいく。それでいて、素晴らしい推進力。
想像するに、そのリハーサルは極めて厳しいものであったに違いありません。“弱音を大切に。レガートで。”という指示がひっきりなしに飛んだはず。時に金管合奏がブラスバンドになり勝ちな日本フィルから、真の意味でのドイツ音楽を引き出した手腕は並みのものではありますまい。
しかし、それがあだになったのか、ザ・グレイトの「肝」でもある冒頭と第2楽章第2部(5部構成と考えて)の最後のホルンにミスが出ました。技術的な問題ではなく、想像を絶するほどの緊張を強いられた結果でしょう。
それでも、これを瑕疵として批判するのは野暮というもの。オーケストラは、ヘルビッヒのようなホンモノの音楽を振れる指揮者に鍛えられ、そのプレッシャーを克服してこそ、より高いレヴェルに達することが出来るのです。
日本フィルには、定期的にヘルビッヒを招聘することをお願いしたいと思います。今回の来日も定期演奏会だけというのは、いかにも勿体無い。出来れば年末の第9も振って欲しかった。
日本ではあまり評価されていないこの指揮者。私は、今回のシューベルトとベートーヴェンで、初めてマエストロの真価に触れた感じが致しました。ヘルビッヒ、聴くべし。
尚、シューベルトでは木管楽器だけが倍管という珍しい編成だったことを付け加えておきます。二日目の土曜日、福川くんの雪辱を期待して・・・。
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