サルビアホール 第108回クァルテット・シリーズ
サルビアホールのクァルテット・シリーズ、ここ5年ほど2月はクァルテット・ベルリン=トウキョウを堪能する季節と相場が決まりました。2015年の2月に鶴見に初登場した彼ら、以来5年連続でのサルビア。いっそのこと鶴見定期シリーズと命名しても良いんじゃなかろうか。毎回挑戦的な曲目と演奏で理想的な音響空間を沸かせてきたベルリン=トウキョウ、2019年の第5回こそ、その頂点を極めたのでは、と思えるほどにチャレンジングな体験でした。
今回が鶴見でのお披露目となった新ヴィオラ奏者を伴って披露したプログラムは、
J・S・バッハ/フーガの技法~コントラプンクトゥスⅩⅣ BWV1080
J・S・バッハ/コラール「わが心の切なる願い」BWV727
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第10番変ホ長調作品74「ハープ」
~休憩~
シューベルト/弦楽四重奏曲第15番ト長調D887
クァルテット・ベルリン=トウキョウ
プログラムの構成と演奏に入る前に、彼等の近況から。
冒頭にも記したように、今回からヴィオラ奏者が替わりました。当初彼らがサルビアに見参した時のヴィオラは日本人奏者の杉田恵理でしたが、2017年からはケヴィン・トライバーに交代。そして今年からは恐らく3代目のヴィオラ奏者としてグレゴール・フラーバル Gregor Hrabar が加入しています。改めて4人を紹介しておくと、ファーストが守屋剛志、セカンドがロシア出身のディミトリー・パヴロフ Dimitri Pavlov (愛称モティ)、そしてヴィオラにスロベニア出身のフラーバルが加わり、チェロは松本瑠衣子。ヴィオラ以外の3人は設立時から変わっていません。
彼等の配置に付いては、前回2018年(第92回)からヴァイオリンがいわゆる対向配置に代わっており、今回もこのスタイルでした。以前に紹介したことがありますが、彼等のホームページをもう一度見てくださいな↓
https://www.quartetberlintokyo.com/
さて昨日の感想。これまでの4回は全て当ブログで詳しくレポートしましたから、彼等の演奏スタイルに付いては繰り返す必要はないでしょう。極めて集中力が高く、彼等ならではのアイディアに満ち、常に新しい視点で譜面を読み込んで行く。
その真骨頂が、彼等のプログラム作りにありましょう。これまでは定番のようにハイドンとベートーヴェンを最初と最後に置き、間に比較的新しい作品を並べるという構成。第1回は細川作品でしたが、2回目から4回目まではバルトークが取り上げられてきました。
今回は初めて、バッハ・ベートーヴェン・シューベルトというドイツ音楽3題という、一見オーソドックスな選曲。ところが、ところが、実はアンコールも含めて入念に考えられた仕掛けが施されている。それに気付いたのは、演奏会から一夜明けた今日の事でしたが・・・。
冒頭で取り上げられたバッハの2作品。表記の演奏作品表にはフーガの技法のコントラプンクトゥス14番と書きましたが、実際に演奏されたのはこの楽章ではなく、フーガの技法の最終楽章、つまり未完に終わってバッハの絶筆となった「3つの主題によるフーガ」Fuga a 3 Soggetti でした。
演奏楽器の指定がないフーガの技法ですが、音楽は4声部で書かれ、弦楽四重奏で演奏するには全く違和感がありません。当日配布された曲目解説にも書かれていましたが、ベルリン=トウキョウは未完のまま演奏し、恰もバッハはここで筆を止めました、と伝えるが如くフリーズ。暫くしてバッハの数多あるコラールの中から最も有名な、マタイ受難曲では「血潮したたる主の御頭」として使われるコラールが感動的に演奏されました。
最初に演奏されたフーガの3つ目にして最後の主題には作曲者自身の音名、BACHが盛り込まれているのは解説の通り。このコンサート、バッハの最後の作品、未完作品で始められたというのは、単なる偶然じゃありません。それは最後に。
続いて前半は、ベートーヴェンが最も充実していた時期の作品が取り上げられます。第1楽章に何度も登場するピチカート奏法から「ハープ」という渾名で知られる作品74ですが、この愛称はとかく作品の印象を狂わせてしまいます。
この四重奏曲は変ホ長調(♭3つ)が主調で、最終楽章も主調で書かれた主題と変奏。とくれば直ぐに思い起こすのはエロイカ交響曲でしょ。第2楽章ではベートーヴェン得意の下降3度が心に響き、第3楽章は主調と同じ♭3つの短調であるハ短調のスケルツォ。聴いて直ぐに判るように、「タタタターン」が徹底的に繰り返されるプレスト。と言えば誰でも連想するのが第5「運命」交響曲。つまりハープは、英雄と運命とが合体した音楽と言っても良さそう。要するにベートーヴェンの円熟期を代表する一品と言えましょうか。
後半のシューベルト。これも室内楽ファンなら多くの方が賛成されるように、シューベルトの最後のクァルテットであり、最高傑作。ト長調を主調としながら、壮絶な第2楽章は主調と同じ♯一つのホ短調。頻繁に登場し、意表を衝くような転調が見事で、明るい調に移るほどに悲しみが胸を抉るのは正にシューベルトの真骨頂でしょう。
ベルリン=トウキョウの演奏は、ベートーヴェンでもシューベルトでも構成感を重視し、特に展開部やコーダでの楽想の変化に敏感に反応。それは演奏する姿にも反映され、耳だけではなく目からも調性の変遷、感情の干満が見て取れるよう。バッハ、ベートーヴェン、シューベルトという3人の大作曲家夫々の最高の筆致を描いて見せました。
コンサートはこれで終わりではありません。カーテンコールは一度だけ、セカンドのモティが譜面持参で登場し、直ぐにファースト守屋がアンコール作品名を告げます。ハイドンの作品76の6から第3楽章メヌエット、でありながらプレストで書かれた楽章。
ハイドンこそ、これまでベルリン=トウキョウが拘って演奏してきた作曲家であり、その初登場(作品33-4)で聴き手の度肝を抜いた大作曲家でもあります。作品76はハイドンの最晩年、作曲技法の絶頂期に書かれた作品群で、彼らは本編で既に3・4・5の3曲を取り上げてました。アンコールで演奏された6は、この日演奏されたベートーヴェンと同じ♭3つの変ホ長調で、大傑作はそのトリオ。ここは音階をそのまま使ってミレドシラソファミと単純に下がるや、逆にミファソラシドレミと逆行する。最早ハイドンにとっては作曲=遊戯の世界なのです。
アンコールもこれで終わりじゃありません。「最後に」と断って弾かれたのが、今年確か92歳で現役のクルターク作品オフィシウム・ブレーヴェ Officium breve から「最後の楽章」。これは事実上、クルタークの弦楽四重奏曲第3番に相当するものですね。これにはチョッと注釈が必要でしよう。
クルタークはベルリン=トウキョウが2回目、2016年2月の第55回のアンコールでも「12のミクロリュディアン」をアンコールで全曲演奏したハンガリーの作曲家。2度目のクルタークでもあります。
オフィシウム・ブレーヴェは、正確にはセルヴァーンスキ・エンドレの思い出のために in memoriam Andreae Szervansky 、という副題が付いている作品で、1989年にアウリンQによって初演された作品28。最後の楽章とは第15楽章に当たり、長大ながらも短い楽章で構成されています。全曲の演奏は15分ほど。ユーチューブでいくつかの演奏を見て聴くことが出来ますから、興味ある方はネット検索してください。
最終第15楽章はたったの12小節。しかも大事なのは、全曲の最後が終止を意味する縦2重線で終わっておらず、単に小節の区切りである細い1本の縦線で終わっていること。これ即ち、この日のプログラムで最初に演奏されたフーガの技法と同じなのですよ。譜面は終わっているけれど、音楽は人々の心の中で何時までも続いて行くというメッセージに他なりません。
更に付け加えれば、クルタークはバッハ作品を数多く編曲している作曲家であり、2016年にアンコールされたミクロリュディアンにはBACH音型も鏤められていましたよね。思い出として書かれたセルヴァーンスキ(1911-1977)はクルタークの先輩に当たるハンガリーの作曲家で、戦時中にユダヤ人救済に尽力したことから、イスラエル政府から表彰された人物でもありました。
アンコールされた最後の楽章は Arioso interrotto 、つまり「とぎれた歌」というタイトルが付されたラルゲット楽章で、色々な意味での暗喩が含まれていると思われます。
バッハで始まり、クルタークで終わる。単に大作曲家の最高傑作を並べただけに見えるプログラムですが、実は音楽は繰り返し、永遠に終わることなく繰り返される、という訴えかけでもある。アンコール2曲を含めて全体が一つの輪を完結するように組み立てられたプログラム。凄過ぎるじゃありませんか、ベルリン=トウキョウ。
彼等の2019冬ツアーは、1月23日の鶴川ポプリホールでスタートし、守屋の故郷でもある岡山で3公演。このあとは松本の故郷でレジテンスも務める札幌ふきのとうホールで行われる22日の演奏会で閉じられることになっています。
緻密に組み立てられた今回のツアー、何処かでベルリン=トウキョウに出会った、あるいはこれから遭遇するファンの皆様、どうか彼等のメッセージを重く受け止めてもらいたい、と思いました。
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