読売日響・第592回定期演奏会

史上最強とも言われている巨大台風が近づく中、赤坂サントリーホールに読響定期を聴きに出掛けます。何となく胸騒ぎがするのは台風の所為ばかりではなかったようで・・・。
今期の読響の全プログラムの中で最も興味が湧いたのが、以下の10月定期。同オケの名誉指揮者を務めるテミルカーノフが、満を持して取り上げる「バビ・ヤール」こそ最大の聴きモノでしょう。

ハイドン/交響曲第94番ト長調「驚愕」
     ~休憩~
ショスタコーヴィチ/交響曲第13番変ロ短調作品113「バビ・ヤール」
 指揮/ユーリ・テミルカーノフ
 バス/ピョートル・ミグノフ Petr Migunov
 男声合唱/新国立劇場合唱団(合唱指揮/冨平恭平)
 コンサートマスター/日下紗矢子
 字幕/一柳富美子

ショスタコーヴィチの交響曲の中で、初期の第2番と第3番を除いて最も演奏される機会に恵まれないのが、第13番と第14番でしょう。第14番(死者の歌というタイトルはショスタコーヴィチが付けたものではない)が交響曲というより歌曲集に近いものであるのに対し、第13番は声楽を伴うとは言え、構成的には堂々たるシンフォニーです。
それが何故滅多に演奏されないのかと言えば、やはり内容が問題なのでしょうか。実際、私がこの大曲をナマで体験したのは、今回が初めてでした。ショスタコーヴィチの全交響曲の中で最も難解、多くの謎に満ち、それだけ演奏者側にも大きな負担を強いるからではないか。と言ってもこれは私の個人的な意見。このレポートは超私的な感想としてお読みください。

最初に前半で演奏されたハイドンについて簡単に触れておきましょう。
テミルカーノフが何故ハイドンを組み合わせたのかは分かりませんが、ハイドンとショスタコーヴィチは意外に相性が良いように思います。共に既成概念に捉われないという共通点もありますし、プログラム誌に掲載されていた東条碩夫のエッセイによれば、テミルカーノフ自身が反骨神あふれる改革者とのこと。時代の異なる二人の大作曲家に対するシンパシーがあるものと想像しました。

そのハイドン、いわゆる昨今のピリオド系ハイドンではなく、大型編成(と言っても12型)による巨匠風ハイドンで、こせこせしない大きな流れが特徴。第3楽章メヌエットでは僅かにリタルダンドを掛けたり、ユーモラスな表情も垣間見せていました。
それでいて例の第2楽章の「ビックリ」だけでなく、メヌエットの最後、第4楽章の要所などでティンパニを強烈に響かせ、反骨神あふれるハイドンを聴かせてくれました。こういうタイプの演奏が少なくなっているだけに、久々に快哉を叫んだ次第。

そして問題のバビ・ヤール。そもそも「バビ・ヤール」とはウクライナの首都キエフ近郊の渓谷の名称で、1941年にこの地を占領したナチス親衛隊が3万人以上のユダヤ人を虐殺した地として知られています。交響曲は全5楽章、各楽章にタイトルが付せられていますが、「バビ・ヤール」は第1楽章のタイトルでもあります。エフトゥシェンコという詩人が書いた「バビ・ヤール」という詩に作曲した交響詩が基になっているという作曲の経緯にもよるでしよう。

残る楽章は第2楽章が「ユーモア」、第3楽章「商店にて」、第4楽章「恐怖」と続き、最終第5楽章が「立身出世」となっています。かなり風変わりなタイトルですが、第3楽章から第5楽章は通して演奏され、恰も3楽章形式のよう。今回のプログラムでも、第3から第5楽章までは横並び一列で表記されていました。
しかし別の視点で見れば、第2楽章はスケルツォに相当し、第3楽章と第4楽章は二つに分かれた緩徐楽章と見ることも出来ます。であれば、バビ・ヤールは大きく四つの部分からなる伝統的な交響曲の形式を踏襲していると言えるでしょう。実際、作品には通して登場する核となるようなモチーフが存在し、これが作品全体を統一する役割を果たしているとも考えられます。

長くなりますが、初体験の作品でもあり、記憶のためにも順に観察していくことにしました。
第1楽章は全体の核となる主要モチーフの提示で始まりますが、注意すべきはチェロとコントラバスのピチカートとバスクラ・ファゴット・コントラファゴットが奏する低い動機。これ、解説書等には出ていませんが、どうしても私はムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」冒頭を連想してしまいます。最初の「ラシドシラ」(移動ド表記)という音列は、調性こそ違えどボリスと同じ。
ボリスと言えば、独裁、圧政の象徴でしょう。このテーマ、あるいはここから派生したと思われるモチーフが作品全体を通して聴こえてくるのでした。

バビ・ヤールという地名からはナチス・ドイツを糾弾する意図を連想してしまうのですが、詩の2節目の最後にバス独唱が「ベロストーク」という単語を発します。この単語に充てられているのは、2度で上昇する3音。移動ドで表現すれば「ラシド」に相当するでしょうか。
これも地名で、こちらはポーランド北東部の都市の名前で、20世紀初めに帝政ロシアのロシア兵たちが数万人のユダヤ人とポーランド人を虐殺した地。表面的にはナチス・ドイツを表に出しているのですが、実は帝政ロシアの蛮行も糾弾しているのではないか。
正にこのことが、作品の初演に対してソヴィエト当局が出演者や演奏そのものを妨害した理由に他ならないでしょう。

このあと音楽は「ユダヤ人を殺せ、ロシアを救え」とドンチャン騒ぎに発展します。アンネ・フランクのエピソードを挟み、合唱が「インターナショナルを響かせろ」と高唱。もちろんインターナショナルは当時の共産党党歌であったことは承知の通り。インターナショナルそのものは出てきませんが、それを連想させるマーチで長大な第1楽章が閉じられます。
今回は字幕付きで上演されたのですが、何故か「ベロストーク」も「インターナショナル」も他の言葉に置き換えられていました。声楽はキチンと歌っているのに、です。何らかの検閲が働いたのか、と見るのは考え過ぎでしょうか。

第2楽章「ユーモア」。基本的には権力者にもユーモアを弾圧することはできないという内容ですが、途中から出現する如何にも楽し気なメロディーに注目。(練習番号で言えば45辺りから)
実はこれ、バルトークの「2台ピアノと打楽器のためのソナタ」第3楽章のパロディーなんですね。バルトークと言えば、管弦楽のための協奏曲の中でショスタコーヴィチの第7交響曲をパロッた人。ショスタコーヴィチはここでバルトークに仕返ししたとも考えられますが、あくまでもリスペクトあってのこと。これこそ「ユーモア」というショスタコーヴィチ一流の皮肉も込められていると聴いた方が良さそう。

第3楽章「商店にて」。緩徐楽章前半ですが、冒頭15小節の長きに亘ってチェロとコントラバスのユニゾンが低音を徘徊しますが、何となく「怒りの日」が聞こえてくるようなモチーフ。いわゆる仄めかし、と思われます。
相槌を打つカスタネットとウッドブロックは、ロシアの女たちが食料品を買おうと持参する空き缶や空き瓶の触れ合う、あるいは抗議のために叩く音。
音楽は次第に激高し、バス・ソロと男声合唱が「レジで女たちを騙すのは恥なこと」「計量で女たちを騙すのは恥なこと」と叫びます。このメロディー、頭は正に「怒りの日」に他なりません。冒頭と同じ音楽が、10小節間奏でられアタッカで第4楽章へ。

第4楽章「恐怖」。恐怖はユーモアの裏返しでもあります。つまり第2楽章と第4楽章はペアでもあり、全体のアーチ構造に資しているとも言えるでしよう。
チューバのソロが独白を続けますが、裏で鳴っているのは前楽章の蠢きそのもの。この楽章も次第に音量と動きを増して頂点に達しますが、ここで鳴らされる金管のモチーフは、第1楽章の「ベロストーク」で使われた3音上昇動機。

音楽は突然、変ロ長調に転じて第5楽章「立身出世」へ。ここもまた不可思議な楽章で、変ロ短調で始まった交響曲が最後は変ロ長調で終わるという点だけを見れば、ベートーヴェンの第5、ブラームスの第1と同じ「暗黒から光明へ」と取れなくもない。
ガリレオを例にとり、同じく天動説を知っていた人間が家族があることを理由に説を曲げ、立身出世を選んだという詩。しかし本当の立身出世はガリレオのように中傷を恐れず、自説を貫徹することだ、という意味のことが歌われます。
「これこそが私の言う出世主義だ」とバスと合唱が和すと、音楽はピチカートによるワルツへと流れ込みます。立身出世のワルツ?

ワルツを挟んでシェークスピア、パストゥール、ニュートン、トルストイが話題になりますが、トルストイの個所でバスが舞台奥の合唱団に向かって “レフか?” と問うと、合唱が “レフだ!” と答える。もちろん「レフ」とはトルストイのことで、スターリン時代は御用達作家と見られていたトルストイへの揶揄だ、との解説もあります。
続いて合唱が “何故彼等は汚名を着せられたのか” と問い、“しかし中傷されたものは歴史に残る” と繋がる。結論となる “しかし中傷されたものは歴史に残る” は「シドレミ」という音名で始まりますが、これはショスタコーヴィチのイニシャルでもある「レミドシ」の入れ替えでもありますね。

ここから “何故彼等は汚名を着せられたのか” によるフーガが始まり、“私は出世しないのを自部の出世とするのだ” という結論とも言うべきバス・ソロによる最後の一節に至ります。
楽章冒頭の平和な変ロ長調が戻り、ヴァイオリン・ソロとヴィオラ・ソロの会話(日下紗矢子、柳瀬省太)。舞台上手奥に置かれたチェレスタがフーガ主題を静かに響かせ、変ロ長調の3和音が支える中、最後は舞台下手に置かれている鐘がシ♭を響かせて全曲が閉じられました。

以上が「バビ・ヤール」のドラマでしたが、最後の平和は本当の平和なのか? という疑問符が付くのを否定できる人は少数でしょう。
常にボリス動機、ベロストーク動機、怒りの日の仄めかしが鳴っているシンフォニー、というのが私の最終印象。

演奏が終わり、会場はテミルカーノフに寄せられる歓声と拍手がいつまでも続いていましたが、あの字幕でマエストロのメッセージが何処まで伝わったのでしょう?
テミルカーノフはスコアの指定にあるハープを最大の4台にまで増やし、渾身の名演で応えました。バスのミグノフは、恰もショスタコーヴィチが、あるいはエフトゥシェンコが乗り移ったような名唱と、真に迫る表現力で聴き手を圧倒。
聴いた後に決して幸福感は残らない大作なれど、大きな感銘を与えてくれた10月定期でした。

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