読売日響・第594回定期演奏会
1月も15日になってやっと、演奏会に出掛けました。例年に比べて遥かに遅い今年の聴き初めです。とても正月気分が残っているとは言い難い読響定期、しかもこんなプログラムですから。
ショスタコーヴィチ/エレジー
ジョン・アダムス/サクソフォン協奏曲
~休憩~
フェルドマン/On Time and the Instrumental Factor (日本初演)
グバイドゥーリナ/ペスト流行時の酒宴(日本初演)
指揮/下野竜也
サクソフォン/上野耕平
コンサートマスター/日下紗矢子(特別客員コンサートマスター)
指揮の下野は首席客演指揮者を退任して2年10か月ぶりの登場だそうで、コンサートに出かける前から下野時代の読響を思い出してしまいました。エネルギッシュな音楽創りと斬新なプログラム、名曲でも思い切り視点を変えた解釈に何度も納得させられたものです。
今回も下野ならでは、いゃ、下野にしか組めない選曲でしょう。4曲のうち半分が日本初演、他もほとんどの人が初体験の作品が並び、自ら「またか?」と自虐的になっていたほど。実は読響には珍しく会員向けにインタビュー記事が事前に配布されており、同じ内容が楽団のホームページにも掲載されていましたから、当日会場でプログラムを見て仰天、というファンは流石にいなかったと思われます。
そのインタヴュー記事を要約すれば、視点はロシアとアメリカの対比が一点、そしてもう一つは、動的な2作品と静的な2曲との対比、ということになります。音楽的なバランスと組み合わせ、あとはどんな作品なのか、という楽しみでしょう。
こうした作品が並んだ場合、多くの人は予習したい、と思ったでしょうね。ところがこれが中々に厄介。冒頭のショスタコーヴィチ(ロシアの静)はオリジナル作品のリストには載っていないし、具体的にどの曲であるかは当日のプログラムを開けるまでは分かりませんでした。
前半2曲目のアダムス(アメリカの動)。下野はアダムスを得意にしていて、読響でもアトミック・シンフォニーとハルモニーレーレを振っていました。読響は別の指揮者でシティー・ノワールも取り上げていましたから、今回の4作品の中では最も親しみ易い存在でしょう。
後半の日本初演2曲。最も難問なのがフェルドマン(アメリカの静)で、ナクソスで音源は確認したものの、楽譜は手元にありません。もちろんユニヴァーサルから出版はされていますが、録音を聴いた限りではわざわざ取り寄せる気にはなりませんでした。
メインのグバイドゥーリナ(ロシアの動)は、探すのに最も苦労したもの。楽譜はミュージック・セール・グループのペルーサル・スコアで何とか読み、音源も探し回った挙句、ユーチューブで何とか二つの音源を見付けることが出来ました。というわけで、お正月早々頭の中は現代音楽で一杯になってしまいましたワ。
なお、月刊オーケストラ1月号には作曲家・一柳慧に聞く20~21世紀のアメリカ・ロシアの現代音楽という特集が組まれていて、これが曲目解説(柴辻純子)と併せて大いに参考になりました。特に一柳氏はフェルドマンと親しく、氏の回想を読んでから作品に接すると、なぁ~るほど、と思うこと頻りでしたね。
ということで、簡単な紹介と感想に入りましょう。
最初のショスタコーヴィチは、作曲者が若かったころに書いた弦楽四重奏のための2つの小品(1931)の第1曲を弦楽合奏版に編纂したもの。同じ頃に作曲していた歌劇「ムツェンスクのマクベス夫人」の第1幕第3場のアリアのアレンジでもあります。シコルスキが編纂者のようですが、何故かシコルスキ社の出版リストには載っていません。嬰へ短調で書かれたアダージョ楽章で、静かな悲しみが胸を打ちます。
こうした世界は下野が得意とするところで、彼はブルックナーのアダージョ(弦楽五重奏曲)をスクロヴァチェフスキがアレンジした版を時々紹介してくれますが、それと同じ世界と言えましょうか。
続いてはアダムスのサクソフォン協奏曲。会場の雰囲気は180度変わり、アメリカのジャズ・ワールドが繰り広げられます。ソロはアルト・サックスですが、本来サクソフォンという楽器はベルギー人のアドルフ・サックスが発明したもので、当初はベルギーやフランスの軍楽隊の楽器でした。
従ってクラシック音楽で使われるようになったのも最近のことで、先ずはフランスで市民権を得ます。例えばラヴェルはボレロやムソルグスキー「展覧会の絵」の編曲で使い、ドビュッシーもラプソディーを作曲。続いてはミヨーがバレエ「世界の創造」でヴィオラの代わりにサックスを登場させたり、イベールも室内協奏曲で協奏曲のソロ楽器に昇格させています。
一方でサックスをスター楽器として大成功させたのがアメリカ。もちろんジャズやポップスの世界ですが、サックス無しにアメリカのポピュラー音楽は語れないでしょう。そんなアメリカで、クラシック音楽の世界でこの楽器に脚光を当てたのがジョン・アダムス。もちろん先輩としてバーンスタインがウェストサイド・ストーリーで華々しくサックスを響かせた伝統もあり、今回の協奏曲にも繋がってきます。先に読響が取り上げたシティー・ノワールでもソロ楽器して用いていますし、オペラ「中国のニクソン」でもサクソフォン四重奏も登場させていました。
そもそもアダムスの父親はアマチュアのサックス奏者で、幼いジョンもサックスの響きの中で育ったほど。彼にとっては何の違和感もない楽器なのでしょう。協奏曲は、そこに名手ティモシー・マカリスターとの出会いがあって生まれた作品。ジャズもクラシックもの両刀遣いだったマカリスターは、実は若い頃には自転車のスタントマンをやっていた経験があったそうで、それを知ったアダムスがリスクを取れるような協奏曲を書く切っ掛けになったのだそうな。
作品はシドニー交響楽団、セントルイス交響楽団、バルチモア交響楽団、サンパウロ交響楽団の4団体による共同委嘱の形で書かれ、2013年8月22日にシドニー交響楽団よって初演。もちろんマカリスターのソロとアダムス自身の指揮でした。当然ながらマカリスターに献呈されています。オーケストラの編成は3管主体にピアノと5オクターヴが出せるチェレスタ、ハープと弦。打楽器が一切使われていないのも特徴と言えるでしょう。
29分ほどの2楽章構成ですが、第1楽章が全体の8割弱を占めるアンバランスなもので、第1楽章は更にアニマート、モデラート、トランクィロの3部分に分かれています。音楽は上行スケールを7回も繰り返して始まる躍動的なスタートですが、教会旋法が使われている由。アダムスに言わせれば、「バッハのカンタータを歌っている歌手にビリー・ホリデーを歌え、と言っているようなもの」だそうで、妙に納得してしまいました。
ソロの上野は、以前に山田和樹指揮日本フィルの定期で上記ミヨーとイベールで聴いていました。前回はフランスでのサックスを満喫しましたが、今回はアメリカでのサックス。彼こそは天才としか言いようのない名手で、よくぞここまで作品を手中に入れたものだと圧倒されてしまいました。ジャンルを問わず、天才の演奏は人を幸福にしてくれます。
アンコールがまたふるっていました。本人は「可愛い曲」と言っていましたが、ブラームスが第2ピアノ協奏曲を「小さな協奏曲」と呼んだようなもの。どうして飛んでもない4分間で、サクソフォンのあらゆるテクニックがギッシリと詰まった一品。テュドール Gordan Tudor (1982-) という人のクウォーター・トーン・ワルツという曲名だそうで、上野の超人的な技巧に二度ビックリでした。
で、後半。
モートン・フェルドマンは1926年にニューヨークで生まれ、1987年に同じニューヨークで没した典型的なアメリカの作曲家。ヨーロッパ的な音楽を忌避していましたが、東洋的な世界ではなく、アメリカそのものとしか言いようのない作曲家。私が若い頃は図形楽譜で作曲する人として認識していましたが、今回日本初演された作品が書かれた1969年頃からは普通の五線譜で書くようになっていたようですね。
何しろ日本語訳が付けられないようなタイトルで、プレイヤーたちが舞台狭しと犇めく大編成ながら、出てくる音楽は静かで動きのないもの。どのパートも単音ばかりで、下野の棒を見ていると5拍子が多いようですが、そのうち2拍は休止じゃないでしょうか。ジッと耳を凝らし、何が起きるのかと固唾を呑む8分間でしたが、結局は何も起こりませんでした。この辺り、一柳氏の一文を読まなければ理解不能の音楽? と取られても仕方ないのかも。
同じく大編成ながら、管楽器、特に金管は多くが入れ替わるグバイドゥーリナへ。先ず奇妙なタイトルに惹かれますが、これはプーシキンの戯曲から取られたもの。そもそもプーシキンの作品はオペラ化されたり音楽の題材になるものが多く、その意味ではロシアのシェークスピアと言えそう。
思いつくだけでも「ルスランとリュドミラ」(グリンカ)、「ボリス・ゴドゥノフ」(ムソルグスキー)、「金鶏」(リムスキー=コルサコフ)、「エフゲニ・オネーギン」(チャイコフスキー)、「スペードの女王」(チャイコフスキー)、「モーツァルトとサリエリ」(リムスキー=コルサコフ)、「けちな騎士」(ラフマニノフ)、「エジプトの夜」(プロコフィエフ)等々、挙げ出したら限がありません。
かく言う「ペスト流行時の饗宴」も、グバイドゥーリナ以前にセザール・キュイがオペラ化しているそうですが、それは知りませんでした。そもそもプーシキンの戯曲もオリジナルではなく、スコットランドの詩人ジョン・ウイルソンの演劇「ペストの街」をロシア語に大筋で翻訳したものだったのじゃないかしら。
去年の年末は赤死病のタイトルが付いた音楽を聴き、新年早々から黒死病の音楽。現実世界でも武漢発の原因不明の肺病が蔓延しつつあることでもあり、病気は人類には永遠につつく不安の要素かも知れませんナ。などと思いを巡らせつつ、グバイドゥーリナを聴きましょうか。
本作はフィラデルフィア管弦楽団とピッツバーグ交響楽団が共同委嘱したもので、2006年2月15日にサイモン・ラトル指揮フィラデルフィア管弦楽団によって初演されました。献呈はサイモン・ラトル。以来、ピッツバーグとニューヨークではアンドリュー・デイヴィスが指揮し、2008年11月のドイツ初演はシモーネ・ヤング指揮ロッテルダム・フィルが演奏。2011年11月にもマリス・ヤンソンスとコンセルトヘボウが取り上げ、同年12月のロシア初演はフェドセーエフが振るなど、今や世界の現代人気作品に数えられています。
単一楽章、演奏時間25分の大作で、冒頭6本のホルンとトランペット1本によるファンファーレでかっこよく始まります。短い音程での上行モチーフと下向モチーフのせめぎ合いが続きますが、これはペストが流行る中で酒宴を開こうとするグループと、それをたしなめる聖職者たちの論争を表現しているのでしょうか。
この大作にはあらかじめ録音された電子音が使われるのが聴きどころの一つで、演奏楽譜をレンタルするとCDが1枚付いてくるそうです。ここには16のトラックが収められていて、スコアの指示する箇所で電子音を再生し、オーケストラのナマ音に重ねられます。1階席で聴いていると、電子音が上から降ってくるような感覚。これはとても録音などでは味わえない体験で、生演奏の醍醐味と言えましょう。
スコアの練習番号で示すと、電子音が登場するのは練習番号96からで、以下断続的に出現。131から4本のトランペットによるファンファーレが鳴り始め、135が酒宴のクライマックス。ここに至って電子トラック16がオーケストラの強奏 ffff にかき消される如くホールが飽和状態にまで到達するのでした。これに先立ち、77から88まではハープと Bar Chimes という名の特殊打楽器が乱れ弾きを披露したり、低音打楽器の強打など、手に汗を握る場面が続出。下野/読響ならではの斬新、かつスリリングな名演に思わず仰け反ってしまいました。
最後は弦のハイ・ポジションでの弱音に乗ってマリンバ、トライアングルが余韻を響かせ、グバイドゥーリナがスコアに書いている「そこに何かあるとしたらそれは希望」で全曲が閉じられます。
2020年1月15日の日本初演、近い将来に再演が聴かれるのではないでしょうか。
ということで今年の聴き初め、アメリカとロシアの対決、静と動の対比に加え、「上野」と「下野」の対戦も味わえた豪華な定期演奏会ではありました。下野マエストロには是非是非、相変わらずのプログラムで見参してくださいね。
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