二期会公演「フィデリオ」

9月の秋シーズンに入り、3日から6日までの4日間、演奏会が再開されてから初めてとなる本格的なオペラの舞台公演が行われました。その最終日、二組目の2日目公演を初台にある新国立劇場オペラパレスで満喫してきました。
今年が3年目となる二期会、新国立劇場、藤原歌劇団(日本オペラ振興会)の3団体が共催するオペラ・プロジェクトの一環。今年は二期会主催のフィデリオ。新国立と藤原は合唱団として参加。我が国オペラ界の総力を挙げての舞台で、今回のコロナ禍の中でも何としても上演に漕ぎつける、という関係諸氏の熱意と執念とが実った上演でもありました。私が聴いた日のキャストは以下の面々。

ベートーヴェン/歌劇「フィデリオ」
 ドン・フェルナンド/小森輝彦
 ドン・ピツァロ/友清崇
 フロレスタン/小原啓楼
 レオノーレ/木下美穂子
 ロッコ/山下浩司
 マルツェリーナ/愛もも胡
 ヤッキーノ/菅野敦
 囚人1/森田有生
 囚人2/岸本大
 管弦楽/東京フィルハーモニー交響楽団
 合唱/二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部
 指揮/大植英次
 演出/深作健太
 装置/松井るみ
 照明/喜多村貴
 映像/栗山聡之

感染拡大防止に配慮し、来場者にはホールに入る前にクラスター発生に備えて連絡先の提示が求められました。入り口での手指消毒、検温は各ホールと同様。チケットの半券は自身で切り、一部1000円のプログラムは各自購入となります。
座席が市松模様に使用されるのも現時点での標準で、最前列から3列目までは使用不可。私共がゲットしたチケットは1階8列でしたから、事実上は5列目。オペラを鑑賞するには理想的な席でしたね。

ロビーで購入したプログラムの表紙は、イニシャルの「F」を大書した Fidelio の文字が踊っています。このデザインが深作演出の重要なポイントであることは、実際にオペラを見終わると理解できる仕掛け。先ずは指定席に陣取ってプログラムにサッと目を通します。
演出家自らが書き下ろした演出ノート、「人類の壁」と題された読売新聞ジャーナリスト・森千春氏のエッセイは必読の指南書でしょう。ベルリンの壁崩壊時にレナード・バーンスタインの間近であの第9公演の経緯を実体験している大植英次氏へのインタヴュー、今回の演出でも一役を担う映像デザイナー・栗山聡之氏へのインタヴューからも演出の大意が見えてきました。

当初の指揮に予定されていたダン・エッティンガーが海外渡航規制で来日できず、白羽の矢が立ったのが大植。演出の意図を理解すれば、プログラム誌に東京二期会理事長・清水雅彦氏が挨拶文を寄せられていたように、大植の登場はこのプロダクションにとって運命だったのかもしれません。

定刻、その少し前から秒針が刻むチクタクという電子音が微かに聞こえてきます。オーケストラ・メンバーは既にピット(と言っても通常より高い位置に設定され、楽員の演奏姿は1階平土間からも良く見えます)に待機。
三浦コンマスがチューニングを要請するところでチクタク音は止み、指揮者の登場。舞台と客席は半透明の紗幕で仕切られており、序曲が鳴る前から舞台上では黙劇が進行。舞台上方に「Albeit macht Frei?」(働けば自由?が得られる)と読める看板状のプレートが黒々と掲げられているのが見えます。

黙劇の登場人物はボヤっとして良く見えないのですが、ドン・ピツァロと思しき人物がハーケンクロイツの腕章をつけ、辺りを監視。突如正面を向くと、指揮者に向かってムチを一閃 “Arbeit”(働け!)と命令すると同時に序曲が始まりました。
そして響いたのは、通常演奏されるホ長調の「フィデリオ」序曲ではなく、ハ長調の「レオノーレ」序曲第3番。その演奏中、舞台では鉄条網で囲われた者たちが寒さに凍えたり、フロレスタンと思われる人物が看守に抵抗して拘束されるストーリーが演じられます。やがてレオノーレが現れ、髪を自ら切って夫の救出を誓うというシーン。この静かな劇を見て、聴衆は歌劇「フィデリオ」の前史を理解できることになります。

序曲の後半、トランペットのファンファーレが舞台裏で吹かれる個所では、紗幕にドラクロアの「民衆を導く自由の女神」が映し出されます。ドラクロワの絵は、実際に第2幕のファンファーレでも再現。これを見れば、観衆はフィデリオの救出劇が「自由 Freiheit」を獲得するための普遍的な象徴であることを、否でも理解せざるを得ないでしょう。

第1幕が始まっても、台本にあるような刑務所は出てきません。父ロッコと娘マルツェリーネ、彼女に恋するヤキーノとフィデリオと名を変えたレオノーレの4人は、まるで戦地からの引揚家族のように描かれます。深作が解説する第1幕前半の世話場な歌芝居でしょう。紗幕には1945年という具体的な年号まで掲示されました。
この演出では紗幕を効果的に利用し、映像で第二次大戦後のドキュメンタリー・フィルムが映し出されたり、テロップで時々の回顧録などが映し出されます。もちろんドイツ語歌唱なので字幕テロップも別に用意されていましたが、舞台上の演技とはかけ離れたもの。フィデリオの歌詞や台詞は様々な経験で熟知していますから、私は一切字幕を見ませんでした。
やがて時代設定は進み、ドン・ピツァロが登場する場面では一気に東西冷戦、即ちベルリンの壁の時代に移行している。深作が言う第1幕後半、音楽劇の場面ですね。

これ以上詳しく深く立ち入るまでもないでしょう。そう、この演出ではベートーヴェンの時代から遥かに時代を下り、ドラマは第二次大戦後の75年間に置き換えられているのです。いみじくも、深作は演出ノートの中で「僕たちが描くフィデリオは、戦後75年間に及ぶ人間と『壁』の戦いを描いた壮大なオペラ」と断言しているのですから。

以下、私が気が付いた点、重要だと思われるポイントを拾っていきましょう。
第1幕の聴かせ所、囚人たちの合唱でも囚人は登場せず、ソロを歌う二人だけが舞台に出て恰もデモ隊の抗議のよう。合唱は舞台裏で歌われます。ドン・ピツァロがロッコ以下を叱責する場面にはフロレスタンも無言で登場し、第2幕への伏線が張られる。その第1幕の最後、舞台奥に屹立する壁に大きな穴が開けられ、ベルリンの壁崩壊を暗示させます。

20分間の休憩後、第2幕の開始も第1幕同様時の刻み音であるチクタクが聴き手の注意を喚起します。
第2幕前半は、パレスチナの分離壁。音楽的にはメロドラマで、時代背景は9・11の同時テロでしょうか。ロッコとフィデリオ(実はレオノーレ)が墓を掘る間、フロレスタンも忙しなく動き回ります。見ると、オペラの開始時に掲げられていた「Albeit macht Frei?」は所々アルファベットが欠けていて、それを修復するのがフロレスタンの仕事。

ドン・ピツァロが登場して局面はクライマックス。この時までに看板文字は「reiheit」まで並べられており、後は「F」を嵌め込むばかり。危機一髪でファンファーレが響き、紗幕にはドラクロワ。
あわやの瞬間で助かった二人による歓喜の二重唱では、レオノーレが「F」をしっかりと抱き抱えながら歌い、その一文字を所定の位置に掲げて「自由」を完成させる。もちろん「F」は Freiheit のFであり、Floresta のF、Fidelio のFでもあります。あるいは Freude に通ずるかも。

救出劇の最後、歓喜の中でフロレスタンとレオノーレがしっかり抱き合いますが、ここがオペラ全体で登場人物が唯一触れ合うシーン。もちろんコロナ禍が生み出したアイデアでしょう。その直後、突然フロレスタンが倒れます。脳卒中か、あるいはコロナ感染か。
ここを境に第2幕も後半。ドン・フェルナンドが群衆の歓呼に応えるはずのシーンは、戦争終結75周年の記念式典に読み替えられます。この式典には車椅子に乗ったフロレスタンをレオノーレが押して登場し、全員が正装姿に替わっている。ドン・フェルナンドはやや頭の回りが悪い人物として描かれ、オラトリオというよりコミカルな印象さえ与えました。これがトランプ政権下で決議されたアメリカ国境の壁を皮肉っているのかは、見る人の判断に委ねられましょう。

大団円で、これまで舞台を覆っていた3つの壁が順次取り払われ、新国立劇場の広い舞台、楽屋裏まで見渡せる広大な空間が姿を現します。その奥に、ソーシャル・ディスタンスを保ってズラリと並ぶ正装の合唱団。
初め全員がマスク姿でしたが、この場を取り仕切るレオノーレの合図で一斉にマスクを外して最後の合唱を唱和。ここは笑えましたね。正にSDを逆手に取った演出でしょう。
歌劇「フィデリオ」も最後の一ページ。ここで又してもレオノーレが指図すると、これまでずっと下ろされていた紗幕が上がり、舞台と客席の間に存在していた「壁」が取り払われる。これこそが、ベートーヴェンが作品に託した自由への讃歌を深作健太が翻訳し、現代の、そして将来の聴き手に呼び掛けたかったメッセージでしょう。

歌手たち、中でも木下レオノーレ、小原フロレスタン、友清ドン・ピツァロは夫々に声に張りのある素晴らしい歌唱を聴かせてくれましたが、特に第2幕冒頭、小原啓楼が発した第一声 “Gott!” には鳥肌が立ちましたね。
これまでの自粛期間で活動できなかった悔しさを全て爆発させたような一声入魂。ナマで聴く、人の声が生み出すパワーに震えました。

こうして徐々にではありますが、我がオペラ界にも希望と歓喜が戻ってきました。その祝典的な気分に最も相応しいのがベートーヴェンであり、フィデリオであるのです。

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