日本フィル・第726回東京定期演奏会

9日にサントリーホールで読響定期を聴きましたが、1日置いた昨日、同じサントリーホールで日本フィルの東京定期を楽しんできました。オーケストラ聴き比べですが、私にとってはこれが今年のオーケストラ聴き納め。今年は第9を聴く予定はありません。
日フィル12月は、当初の予定通りシンガポールの逸材ダレル・アンが指揮台に立ちました。日本フィルとしては、海外から招聘した指揮者が指揮するのは丁度1年前のリープライヒ以来のことじゃないでしょうか。ソリストは事前に発表されていたミシェル・ダルベルトが来日出来ず日本の若手・吉見友貴(よしみ・ゆき)に交替、プログラムも当初発表されていたものから一部が変更されています。

イベール/ディヴェルティメント
モーツァルト/ピアノ協奏曲第17番ト長調K453
     ~休憩~
ブラームス/交響曲第2番ニ長調作品73
 指揮/ダレル・アン
 ピアノ/吉見友貴
 コンサートマスター/千葉清加
 ソロ・チェロ/菊地知也

本来ならプログラムの最初にデュティユーのメタボールが演奏される筈でしたが、大編成の作品はコロナ感染対策のため叶わず、直前に漸くイベール作品と決まりました。私などはこの変更に却って喜んだ組で、久し振りにこの楽しい傑作が聴けるとあって、こんな時だからこそ思い切ってドンチャン騒ぎをしようじゃないか。騒ぎと言っても誰も大声を出すわけじゃなし、盃を呑みかわすわけでもない。密にならない大人の遊びでしょ。
イベールの喜遊曲はディヴェルティメントが公式の曲名になっているようですが、私は本来のフランス語である『ディヴェルティスマン』と呼ぶべきじゃないかと思っています。ディヴェルティスマンじゃないと、この作品のユーモアや軽妙洒脱な雰囲気が伝わって来ません。

ディヴェルティスマンを初めてナマで聴いたのは、記録を繙くと1967年9月のやはり日本フィル定期。東京文化会館の2階正面席で、渡邉暁雄が真にスマートに振ったのを昨日のことのように覚えています。何故かと言えば、私の前の列に座っていた女の子(と言っても私と同年代だったでしょう)がキャッキャと大喜びし、素直に音楽の楽しさ可笑しさに抱腹絶倒していたから。あの光景が忘れられないのですが、彼女は今頃何処で何を聴いているのだろうか?
それ以前に愛聴していたのが、マルティノン指揮パリ音楽院管弦楽団のデッカ盤。録音が飛び切り優秀だったこともあり、それこそレコードが擦り切れるまで聴いていたものでした。特に大太鼓の揺るがすような響き、トランペットの「ファ~ファ~」効果、警官が鳴らすかのような呼子のつんざくような音。これを聴いていて心楽しくならない人とは付き合いたくないですね。

期待のディヴェルティスマン。ダレル・アンは弦楽器の数をスコアに指定されているものから2倍に増やしていました。本来はヴァイオリン3人(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンの区別は無い)、ヴィオラ2人、チェロ2人、コントラバス1人の8人ですが、今回は16人での演奏。ホイッスルは予想通り、福島喜裕が担当。彼ほどこの楽器(?)が似合う人はいないでしょう。
このやや大規模な室内楽は、あの人があの楽器を、という楽しみもあります。つまりフルートはピッコロ持ち替え、ファゴットがコントラ・ファゴットも吹くのですが、真鍋恵子がピッコロを、鈴木一志がコントラ・ファゴットを吹くのは極めて珍しい光景でしょう。このレアな体験をするのもディヴェルティスマンならでは。ダレル・アンは軽快なテンポとメリハリを付けたストレートな表現。個人的にはフィナーレのトランペット「ファ~ファ~」をもっと強調して貰いたかったけれど、ここは節度を守って格調高く纏めました。奇想天外な展開に面食らった聴き手がいたかも・・・。

続いてはモーツァルト。2日前の読響でも新鋭の岡田奏が第25番を弾きましたが、この日はト長調のK453を、これまた若い吉見友貴が弾きます。吉見は2000年生まれとのことで、二十歳を迎えたばかり。高校2年在学中に日本音楽コンクールで最年少優勝を果たし、ニューイングラント音楽院に奨学生として在学中の由。日本フィルとは初共演と思われますが、いきなりの東京定期という大抜擢です。
K453は岡田が弾いたK503とは違い、ト長調と言う調性もあってトランペットとティンパニは使われません。しかし管楽器は共通していて、フルート1、オーボエ2、ファゴット2とホルン2。この作品も管楽器の扱いが聴き所。例えば第2楽章など、冒頭5小節の弦楽器のみによる前奏に続いてオーボエが奏でるメロディーは、まるでオペラのアリア。これにフルートとファゴットが絡むさまは恰も三重唱を聴いているような気持ちにさせられます。そして登場するピアノは、正に歌劇のタイトルロール。これこそモーツァルトのピアノ協奏曲を聴く醍醐味と言えるでしょう。第3楽章の終結部がオペラ・ブッファのフィナーレを連想させるのも、453の魅力。

K503との違いは、カデンツァ。503(カデンツァは第1楽章のみ)にはモーツァルト自作のカデンツァが残されていないのに対し、453には第1楽章と第2楽章、夫々二つづつの自作カデンツァが残されています。
吉見は両楽章ともモーツァルト自作を弾いたと思いますが、本編の協奏曲よりほんの僅か遅めのテンポを取ります。これこそが彼のピアニストとしての資質じゃないでしょうか。適度なロマンチシズムと哀感を湛えながらリリカルに音楽を作って行く。モーツァルトをサラリと弾き通すだけに留まらず、カデンツァで自らの個性をしっかりと打ち出す姿勢。私は好感を持ってこれを受け止めました。

吉見の音楽性は、アンコールの選曲にも表れていました。何やらシャンソン調の楽曲を弾き始めましたが、後で掲示板を確認すると、シャルル・トレネ作曲アレクシス・ワイセンベルク編曲による「パリの四月に」とのこと。思い入れのある音楽なのでしょうか、弾き終えた吉見には微かに感情の高まりが見て取れるほどでした。
岡田奏と吉見友貴、3日間で二人の若手ピアニストを初体験するという稀有な師走を楽しむことが出来ましたね。

休憩を挟んで、ブラームスの第2交響曲。ダレル・アンは去年3月に横浜定期でも聴きましたが、その時のフレンチ・プログラムに感心したばかり。今回はドイツ音楽をどのように振るのかに興味がありましたが、これがまた素晴らしい。
ソーシャル・ディスタンスに配慮し、オーケストラ全体を客席から離すように舞台奥に集め、しかも客席最前列を空席にする(P席も同様)徹底した感染対策。読響では最前列もビッシリ埋まっていましたから、オーケストラによって対応が異なるのですね。

それはさて置き、オーケストラを舞台奥にコンパクトに集めた結果、弦楽器を12型に減らしていたのは読響と同じ。但しコントラバスだけは一人多い5人で演奏していたと思います。
この配置が生んだ効果だけではないでしょう、アンが振るブラームスはオーケストラ全体が恰も大きな室内楽のようにギュッと引き締まり、極めて集中度の高い音響体として響くのでした。速目のテンポ、澱むことの無い音楽の流れ、そして誠に自然なフレージング。要所要所で使われるトロンボーンとチューバがしっかりと存在感を主張する。どっしりと重厚なブラームスとは対極にありながら、充実したシンフォニーを聴いたという実感が伴います。第2交響曲はこうあるべきではないか、という説得力を感じました。

ダレル・アンという指揮者は演奏終了後、全てのパートを立たせて称えるようなカーテンコールをせず、最も重要なパートのみを紹介していきます。
ブラームス第2の場合、先ずホルンの第1奏者、続いてオーボエのトップ、最後にチェロ・パートだけを立たせたのは、この作品の本質を見事に捉えていました。日フィルさん、このアジアの逸材に何かポストを用意して押さえるべきじゃないでしょうか。前回のフランス音楽と今回のドイツ音楽。この2回だけでも、アンの指揮者としての実力は十分に伝わったと思います。

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