カテゴリー: 白柳秀湖

強者弱者(40)

冬の月、枯野  月まどかなり。満都を氷壺の裡にてらす。冬の月は研ぎすましたる鏡の如く、趣、弦月に深し。弦月はゴシック風の塔にかゝりてよし。『長安一片月』など、冴えたる光はすべて萬頃のいらかを照すにふさはしきか。  郊外にありて枯野の情趣最も...

強者弱者(39)

鞴祭、クリスマス  九日、旧暦十一月八日、鞴祭、蜜柑漸く甘し。  霜、雪の如し。広尾方面より電車にて墓地と龍土との間を青山一丁目に通ふもの、射朶裏の枯野に新兵の各個教練を見て、其挙動のをかしきを車窓越にあざみ行くは心なきしうちなり。  弦月...

強者弱者(38)

煙塵  快晴、毎年歳末に近く大気乾燥して火災漸く多し。街上煙塵の甚しきは小石川造兵側、本郷赤門前、青山学院前など行歩頗る悩む。歳末より西北の風につれて屡ゝ龍巻を見る。龍巻は青山練兵場に多し。渦き騰る煙塵の裡より騎兵の一列横隊が馬首を揃へて馳...

強者弱者(37)

新兵入営  一日 新兵入営。都下の新聞紙皆競うて此日の光景を報道す。その観察の浅薄にして皮相に過ぎざること、寧ろ滑稽の感に堪えず。麻布龍土の歩兵第三連隊は主に近在より徴されたるものを集め、赤坂檜町の歩兵第一連隊は主に市内の壮丁を収容す。新兵...

強者弱者(36)

灰色の雲  灰色の雲低く地に垂れたる日、風寒く日昏し。神田はみぞれ、本郷は雪、芝は雨、果せるかな駒込を吹く風、最もつめたし。  三十日、一年志願兵除隊。市内の壮丁にして横須賀の要塞砲兵に徴さるゝもの、皆新橋を発す。           **...

強者弱者(35)

靄  霜ふかき日は午に入て鳶色の靄深し。靄の日遠く、芝、牛込、本郷、上野の岡を望めば淡墨一抹、宛として春霞の揺曳するが如きを見る。霜を見ざるの日は又靄を見ることなし。靄は午前十一時頃より始まりて午後二時頃に終る。郊外より市を望むもの、地平線...

強者弱者(34)

除隊兵  廿五日頃一年志願兵を除きて満期義務兵皆除隊。制服制帽の身に寸分の隙なく塵一つ止めざるは天晴武者振り、特に私費を以てしつらへたりと覚ゆ。古き鞄に土産の絵巻もの、記念撮影の写真など束ねて、茫然と街上に歩を運ぶさま無帯剣とはいへ、昨日の...

強者弱者(33)

霜柱  東京にて寒さの最も甚しきは北豊島に接する小石川、駒込の町々なり。千駄木富士前曙一円の地高台にして霜どけの甚しき市内他に其比を見ず。最も暖きは高輪、三田一円の地なり。千住は南北とも駒込に比して遥に暖かなり。新宿の寒さは駒込につぐ。駒込...

強者弱者(32)

落葉  落葉の音頻りなり。落葉はその晩秋のこがらしに吹かれて高く空に冲し、夕日に翻る態もよし。一度地に委したるが、微かなる風に地を払って行く人の裾にまとひ、即かず、離れず、転々として大地を走り溝に入りて斂まりたるもをかし。されど其最も趣味深...

強者弱者(31)

霜  初霜、初氷。カンナ、コスモスなど夏の末より今に咲き残れる草花一夜にして傷み、世は漸くにして枯淡蕭條の域に入る。  霜に傷むことの最も著しきものは桑の葉なり。大山々麓の高原、八王子附近、相模川上流の台地、十一月の初旬、初霜をまちて淡緑萬...

強者弱者(30)

野菊の萎む頃  白き野菊の色鮮やかなるに、すがれたる花の紫がかりたるを交へて野の趣殊に深し。黄なるは既に末なり。  各区ところどころに義務兵送迎の旗を見る。此頃多摩川の右岸に立つ者、西の方遠く相模の高原に野砲の轟を聞く可し。第一師団の機動演...

強者弱者(29)

七五三の祝日  十五日 此日、七五三の祝日、神田明神、日枝神社など、若き妻の産子を抱いて詣づるもの、車輪相継いで忙はし。綾を断ち、錦を綴りてしつらへたる晴衣のきらびやかなる、さては貧しき家の女房の姑とおぼしきに伴はれて徒歩のまゝしのびやかに...