カテゴリー: 白柳秀湖

強者弱者(100)

暮春の恨  暮春の恨綿々として尽きず。行く春の悲は春浅き日の愁ひにくらべて浅けれども長し。青麦の波五月晴の空に連り、柴笛吹きすまし行く村童の姿を蔽ひたる、菜種の莢の日毎ふくらみ行くにつれ白き大根の花の代りに咲き出でたる、碎米菜の花小さくなり...

強者弱者(99)

青葉の雨  田植の頃、毎年青葉の雨に冴えかへりて寒さ身にしむことあり。駿遠地方時に茶の霜害を被ることあるも此頃なり。近郊に絶えて茶摘の歌を聴かず。唯、相州田名の高原、中津の台など、馬入川の上流に於いて桑の新芽の遠く霞に入りて天際に連る処、ま...

強者弱者(98)

初夏  此頃五月人形の市盛りなり。若葉の風涼しき街樹の蔭、早く龍紋氷室の旗を見る。電車の天上など飲料水の広告にて眼も彩なり、シャンペン、サイダーといふものゝ味、シャンペンに似かよひて口あたりよし。近年の流行、何事にも上流の豪奢を学ばんとする...

強者弱者(97)

煙毒  近年市に於ける工業の著しき発達と共に、煤煙の樹木を毒すること恐るべきものあり。殊に針葉樹の煤煙を厭ふこと其姿の雄々しきに似ず。十年以前余の就いて学べる理科の教師は上野の森の梢を指して、鳥類の体温が如何に樹木を害することの甚しきかを見...

強者弱者(96)

場末の新緑  欅の新緑は楓に後るゝこと二旬若しくは三旬なり。発芽のはじめは銀茶色にして、漸く其色を変ず。暮春の麗日を遮りて鬱然蔭をなす所人を圧して力あり。朝日に夕日に万象蒼然として青し、富士前を妙義坂へ、白山を板橋へ、大塚を巣鴨へ、目白を雑...

強者弱者(95)

新緑  九十の春光既に其半を過ぎて、世は新緑の領に入る。楓は発芽最も早し。市内の樹木近年大かたは煤煙の毒する所となりて萎靡甚しけれども新緑の頃は流石に目覚むる心地す。芝、築地の町々奥ゆかしき圍越に楓の若葉の風にそよげる、さては牛込、小石川、...

強者弱者(94)

八重桜  此月の二十日過ぎて江戸川の八重桜、及荒川堤の花開く。桜の名残なり。江戸川の桜は隅田のながめに勝ること萬々なり。花の両岸よりさし出でて水にうつる風情殊によし。  荒川の花見は人気険悪にして不愉快なることども多し。乱酔者の口に任せて若...

強者弱者(93)

蝙蝠  二十日庚申待、宵暗に星影おぼろなる風情、一刻千金といひけんもことわりなり。此頃より黄昏の空に蝙蝠のかけるを見る。蝙蝠と蟇の多きは東京市の特色なり。上野の森に近き町々、殊に其夥しきを見る。春より夏にかけて夕ぐれ蝙蝠の群れ飛ぶこと空に石...

強者弱者(92)

蛙の声  雨後、夜静かにして遠く蛙の歌を聞く。幽寂の気身に沁む心地す。蟇の恋する声に後るゝこと四十日なり。蟇の子は既に孵化して春雨のしめやかに降りくらす日、蜘蛛の子のやうに散り乱れて路上に這い廻るを見ることあり。仏家の『夏篭り』など思い出づ...

強者弱者(91)

菜の花  菜の花盛りなり。蕪村の句に於いて見るが如き雄大の光景は之を武蔵野に見る可からず。寧ろ麦の畑にとなりて一もと二もと咲き出でたるを大師詣の少女の手折らんとしたる、或は洗場の水に捨てられたる根の端に芽ぐみて、かりそめに咲き出でたるを蝶の...

強者弱者(90)

大師河原  十二日八せん。此頃風雨多し。十七日上野東照宮の祭礼。落花地に委して境内転た寂寥たり。  小金井の花毎年此頃を以て盛りとす、小金井の特色は前に説きたるが如し。大師河原は東京の染井桜を移植したものなれば俗悪にして見る可からず。殊に『...

強者弱者(89)

浮間の桜草  中仙道板橋駅を出でて行くこと弱一里、志村を過ぎて、坂を下れば、視野忽に開けて荒川の河盂となり、遥かに国境の連山を望む。土俗呼んで『浮間』といふ。行くに随って道は広き蘆荻の原に入る。荒川の氾濫地域なり。春風隴上を吹いて蘆の若芽の...